昨日の本つながりですが、昨日から読んでいるのが写真の本…って、自著『玻璃真人新記 真言の…』第一部〈上〉巻なのですが(笑)
本を出版したのが2008年、5年前。原稿は前年の5月に書き上げたので6年前。構想が浮かんで書き始めたのがその前年なのでひぇ~、7年前です。人間の子でしたらもう今年はピカピカの一年生ですね。
小説でも絵でも音楽でもなんでも、自分が生み出したものは自分の子どもみたいなものかもしれません。一年生になった自分の作品に何をしてこれたのかな?産んだら産みっぱなしだったんじゃないか?という思いが常につきまといます。真言たちが「かあさん、オレたちどうなるんだよ?」っていつも言っているような…。その度に「なんとかするよ~」って答えているのですが、正直なところ「いつかなんとかなるやろ~」ときちんと向き合ってこなかったのが本音。でも「いつか」も「なんとか」もないんですよね。自分がどんなベクトルに向かってどんな行動をとるか。で、本ともう一度きちんと向かい合ってみようと、執筆中から数えると数十回と読み直している作品を新たな気持ちで読み始めました。
只今第八章まで読みました。
第一部の執筆はノートとペンだったので、仕事の合間などに縁側に腰掛けて書いたりしました。第二部はPCで書いているから筆が遅いのかなあ~。いやいやこれは言い訳でした。
せっかく一週間ブログ更新記録を打ち立てたのですから、ここでまたさぼってしまっては元も子もないということで、昨日はお休みしましたが、本日もアップいたします。今回は父語りの番外編のような内容です。
父語りの中でも述べましたが、昨年の12月から今年の4月の半ばまで、週に2から3回のペースで図書館に通い本を借りました。主にリージョンプラザの津市図書館を利用しましたが、地元美里町の図書館も何度かお世話になりました。これまでの人生においてこれほど図書館を利用したことはなく、ふだん財布の奥に眠っている図書貸出カードもこの半年余りの稼働率に驚いていたことでしょう。
小説は読まない人だったので、本を選ぶのは結構苦労しました。時事問題系が好きで最初はお気に入りの池上彰さんのシリーズや、ニュース解説的なものをチョイスしていましたが、なんせ週に2,3回、一度に5~6冊を借りるというペースだったので、新しい分野も開拓せねばなりませんでした。エッセイや仏教の本など私のセレクトと父からのリクエストで本を借り続けました。
図書館と病院の行き来の日々の中で、病院の中に図書館があったらなと思いました。代理で借りて届けてくれる人がいる患者さんはいいですが、家族に時間的余裕がない場合もあるでしょうから。県立図書館が三重大学病院への図書館出張活動を行っているようですが、一般の病院に図書館というのは難しいのでしょうか。病院内のスペースも必要だし、管理に人手がかかったりと課題はたくさんあるでしょうね。一つの本棚でもいいので県や市の図書館のコーナーがあり、時々入れ替えを行ってくれるというのが理想ですが…。月に1、2回図書館ボランティアが動けない患者さんにリストを持ってリクエストを聞くとかね。あるいはネット社会なのですから、病院に端末があってリクエストしたら図書館が届けてくれるとか…。Hospital& Library。行動が制限されている患者さんには読書っておすすめだと思うのですが。病室にテレビはありますが、テレビって自分のリズムではないから、本が好きな人には院内で本を借りられるシステムがあるといいんじゃないかな~と思うのです。こんな風に夢と構想は膨らむんですが…。まあ、夢に描いたものはいつかどこかで誕生するかもしれないので、文章につづってみました。
その足しげく図書館に通った間に自分が借りた本は2,3冊ほど。気に入った本は手元に置いて何度も読み返したり、マーカーとボールペンで書きまくったりするので基本的に本は買っています。それでも父の本を探している時に、自分では足を運ばないコーナーで興味深い本に出会って借りました。そのうちの一冊は読後にアマゾンで中古を購入したほどのお気に入りになりました。本というのは書店でも図書館でも出会いがとても面白いな~ということで…久しぶりに図書館に行ってみようかな。
写真はSpace Uzumeの本棚周辺。積んであるのはアマゾンで衝動買いした中古本。ムー関係を買って2,3冊読んだけど他は二か月ほど積読状態。
新美宇受女の父語りと題してアップしてきましたブログも7回目。いよいよ最終回です。
今日、お天気もいいので冬のジャケットなどを洗濯機で洗いました。その中の一つにユニクロの白いライトダウンジャケットがありました。二年前に購入したもので、クルクルっと丸めて携帯袋に入れられるタイプです。それはズボンを購入したいという父をユニクロに乗せて行った時に買ってもらったものです。(洗濯機で回しちゃうところが雑な私ですね~)
自分で運転している時からずっと一人でユニクロ行っていたらしく、ちょっとびっくりしました。80歳を過ぎたじいさんがね~って感じで。その時もパーキンソンで動かしにくくなった体で頑張って試着して、サイズ直しをしてもらい二本購入しました。
何か欲しいものはないかと言われて、それではお言葉に甘えてと選んだのがくだんのジャケットです。青空の下に干しながら、そんなことをふと思い出しました。
もう一枚、もう三十年以上も前のことになりますが、進学のためだったか、受験の時だったか上京する折に、二人で立ち寄った名古屋のデパートで、セーターを買ってもらったのを覚えています。なぜかそのセータのデザインは私の記憶の中にずっと鮮明に残っており、同時に父と洋服を買うというこっ恥ずかしかった感覚も蘇ってくるのです。
想い出は、物や音楽、季節や空気感いろんなものに付随して一瞬私たちを過去に連れ戻してくれます。その瞬間私たちはここに居ながら、その時のその場所にも同時に存在しているような気がします。
父のお棺の中に好きだったものを入れようということになり、晩年は飲めなくなっていた日本酒のパックやよく食べていた田舎あられなどを入れました。読書が好きで、入院中も私が毎週数冊の本を図書館から借りては届けるという数か月でした。ずっと愛読していた週刊朝日を入れようかとも思ったのですが、いや待て、ここは玻璃真人の本だろうと真言…の上下巻を納めました。父の作品である私の作品を持って行ってもらいたいと思ったからです。なんで週刊朝日にしてくれやんだんや~と、あちらで叫んでいるかもしれませんが、おかげさまでこれにて玻璃真人の本、なんと次元を超えて行きました。おじいちゃん!そちらで広報よろしくね!
庭の小手まりが咲き乱れる頃に旅立った父のことを語ってきましたが、7日連続でアップできたことを嬉しく思っています。ブログ不精な私に、頑張ればちゃんとできるよと後押ししてくれたのかもしれません。いなくなってなお、見守ってくれている。親ってそんなものかもしれません。ありがたいな~。 合掌。
覆水盆に返らず…奈々子カップ破損事件のその後。これまた余談ですが、むか~し、むかし、中学校だったかで習った英語のことわざ「It is no use crying over spilt milk」という英語版覆水盆に返らずをずっと覚えているのです。他の英語なんてな~んにも覚えていないんですけどね。
後ろを向いていても仕方がないとうことで、その日の午後は外出をしました。そして本屋に行きました。きっと今日は私を呼んでいる本があるそんな気がしたのです。そこで目が合った?のがE・キューブラ・ロス著の「死後の真実」日本教文社版です。キューブラ・ロスはアメリカの精神科医で、死の臨床医学の分野の世界第一人者です。「死ぬ瞬間」などその著書は日本でもいくつか翻訳本が出版されています。
もう二十年ほど前ですが、四日市でキューブラ・ロスのお弟子さんだったか研究者だったかの外国の方の講演会を聴講する機会がありました。その後図書館で本を読んだりしていましたが、もうすっかり忘れておりました。
研究の多くは死の臨床、ホスピスケアや臨死体験についてでしたが、晩年は死後の命についての考察を深めていたようです。「死後の真実」の中では、死後もいのちはまた別の世界に生き続けていくと語っています。
命や魂というものをどうとらえるかは、本当にさまざまな考えが、人の数だけあると思います。だからこの三次元の体の機能がストップしたら全てが終わりでその先は何も無いという考えもありでしょう。でも私は体は魂の衣装のようなもので、死というのはそれを脱いで魂がまた別の世界へと移っていくことなのではないかと思っています。慣習とはいえ、ほとんどの人が葬儀のあと供養の営みを続けていくのは、どこかで漠然とこれですべてが無くなったわけではないと信じているからじゃないでしょうか。
肉体を脱いで行くわけですからあちらでは形とか体とか必要ないのかもしれません。しかしついつい生前の肉体があちらにもいるようなイメージをしていまいます。本の中にあちらでは完全な姿と機能で存在できると書いてありました。ということは、いつも自分の足で歩くためにもっとリハビリをしたいと願いながらほとんど寝たきり状態になり、口から物を食べることができなくなっていた父も、あちらでは自由に歩き回り飲み食いできるのかなと思ったりします。
見えない世界というか分からない世界だから何が真実とも否ともわかりません。でもそんなふうに考えるとなんか嬉しくなります。真実だとか証明できるとかできないとか、そんなことよりもっと大切なことがあるような気がするのです。
病院から家に帰った父は、帰りたがっていた我が家でひと晩を過ごしました。兄夫婦と孫夫婦が交代で朝まで父のそばで線香を絶やさぬよう起きていてくれたそうです。翌日納棺のために業者の方々が来て下さり、旅立つための衣装を着せ化粧を施してくれました。親族で遺体を浄める湯灌をしましたが、家族、親族総勢15名が次から次に拭きまくるので、父もこそばゆいやら嬉しいやらだったかもしれません。
通夜の夜は私たち娘家族と父の妹たちが一晩付き添いました。睡魔に負けてしまいましたが、線香を絶やすことなくなんとか勤めを終えました。余談ですが、葬儀会館には広いお風呂があり、寝具やアメニティも充実しており快適でした。朝ごはんも美味しくて、息子は旅行に来とるみたいやな~と感動?しておりました。
通夜・告別式もなんとか無事終了し、参列いただいた友人たちからは、いい葬儀だったと言っていただきました。
一連が終わった翌日は、やはり気が抜けたのか朝寝をして起きてからも椅子に腰かけ、もっとああすればよかった、もっとしてあげられることがあったのになど父のことを考えてちょっと落ち込み気味の気分でした。そして紅茶の入ったカップを持ったままついウトウトしてしまい、なんとマグカップが手からポロリと…。床は紅茶びたしでおまけにカップの柄が折れてしまいました。
それを目にして思ったことは「覆水盆に返らず」こぼれた紅茶をなげいてもどうしようもないということ。できなかったことを数えてもどうしょうもないとうことでした。割れたカップは実は二、三年前に上映された「ゴースト」という邦画で、ゴースト役の松島奈々子が映画の中で使用していたのと同じ奈々子モデルだったのです。ゴーストのカップが割れたというのもまた不思議な話で、「そんなことをいつまでもグジグジと考えていなさんな」というゴースト?父からのメッセージのようにも思えました。
お気に入りのカップを無くしたことは残念ですが、新しいお気に入りのカップを探せばいいんですよね。こぼれた紅茶がもどらないなら、新しいカップにとびきり美味しい紅茶を注ぎ直しましょう。ということで、後悔に生きるのではなく、未来に向かって今を生きなきゃね!と思う今日この頃です。
而今禾で買ったマグカップ。これで毎朝しょうが紅茶をいただいておりました。合掌。
亡父は昭和3年生まれ、母は昭和6年生まれ。6人兄妹の父は十代の初めに父親を結核で亡くし、母親が6人の子供たちを新聞配達の仕事をして育てました。三人姉妹の長女の母も14歳で父親を戦争で亡くしています。その時代に生まれ同じような境遇を経験した人も多いと思います。父も母も人生の少なくとも前半は苦労の連続だったでしょう。父が進学を諦めたくだりは前回の語りにも書きました。
自分たちの苦労をあまり多く語る両親ではありませんでしたが、昨年秋に父親が入院してから母が時々「なんにもないとこから始めたんやもんな~」と時々口にしていました。共稼ぎで一戸建ての家を建て、息子に進学のチャンスを与え、娘を東京の美術大学にやり、孫と住めるように増改築をし、孫の世話をし…そんな風にずっと子どもや孫のために生きてきたような感じです。学歴重視の父でしたが、同時に「友だちを作るためにも大学に行きなさい」と進学を後押ししてくれました。この3月に美大時代の友人や先輩に会う機会がありましたが、確かにその時の友人たちとの出会いは今も私の宝物になっています。
家という安心して学び成長する場と、たくさんのチャンスをくれた両親には心から感謝しています。そんな私も今は中学生の息子を持つ母親になっています。息子にとって私はどんな親なのだろうかとわが身を振り返ってみました。
「自分の生き方を見せていくことが、人生ってなかなかいいもんだ、楽しいものなんだと子どもが感じられる生き方を見せることが、私が子どもに親としてできることだと思っています」
なんてことを偉そうに人に語っている私…。
もちろんそういうことも大切だと今も信じていますが、息子からは「もっと目に見える愛をくれ」と言われそうです。両親から与えられた形の愛を私も自分の子どもにつないでいけるのでしょうか。どこまで両親に近づけるのかなあと思いながら、きっと手探りで親を生き続けていくのでしょうね。
そして自分たちのことを後にして、私たち兄妹にいろいろな形の愛を注いでくれた両親にとって私は彼らの宝物なのだと思うことにしました。だから私が幸せであることがこの人生を輝かせて生きることが両親への何よりの恩返しなのだと。というか、両親がそう思ってくれていることを願うのでした。
父と母は人生という旅の苦楽を共にしてきたいわゆる戦友だったのかもしれませんね。よくケンカもしていましたが「転ばんように気をつけなあかんで」と、病院に見舞いに来た母に父がいつも声をかけていました。いろんな夫婦のかたち、いろんな愛のかたちがありますね。
親子でも夫婦でも認め合うということはなかなか難しい。家族のような近しい関係の相手こそ認めようとか理解しようという気持ちになりにくいような気がします。
父は家族の中で学歴や権威信仰型だったように思います。それに無意識に反抗していたのかどうかはわかりませんが、私は権威的なもの常識といわれるものに対してどちらかというと斜に構えておりました。表に見えている世界より、その裏側からの見方に興味がありました。今でこそ陰謀論をはじめいろいろな情報が飛び交っておりますが、二十代の頃よりそういうものにとても惹かれておりました(それが何年ほど前なのかはご想像にお任せいたします…笑)。
他の家族も私ほど突飛ではありませんが、父とは違う方向性の思考だったと思います。そして兄妹はともに父のその望みに応え切れたとは言えない状況でした。私の場合はなんとかすべりこんだ高校で、赤点三昧の日々。美大卒業後は学んだ油絵の技術を活かすこともなく、父としてはどこかでがっかりしている部分があったでしょう。父方の兄妹の子どもたちは、一流の学校を出てそれなりの仕事に就いているのでなおさらがっかり感があったかもしれません。
娘の私は私で、なぜ父は学歴や仕事の内容にそんなにこだわるのか?と思っていました。
通院に付き添い入院してからは病室で会話を交わすうちに、昭和一桁生まれの父がどんなに勉強がしたかったのか、家庭の事情でそれを断念しなければならなかったことがどんなにくやしかったのかということを聞く機会が何度かありました。兄が葬儀のあいさつで、「60歳になってから車の免許を取り、70歳になってから独学でパソコンを勉強するような新しいことに挑戦し、努力する人でした」と述べていましたが、そんな父のことですから、チャンスに恵まれていたらそれなりの勉学の成果を出せていたのかもしれません。
父との会話を通して、それまで私が心のどこかに抱いていた、父の学歴偏重と思える考え方への嫌悪感が無くなっていった気がします。そして父の期待には応えらえれなくても、その父の若かったころの無念さに耳を傾け共感できたこと、それで良かったのだと思っています。
まだしっかりと会話ができた亡くなる数週間前に、父が私に言いました。兄の生き方はあれはあれでいいんだなと。そして私には面と向かってそういう言葉はありませんでしたが、
私が文章を担当した冊子がたまたま刷り上がったので持っていくと、とても喜んでくれていました。まあ、こいつもこいつなりになんとかやっとるみたいやなあと安心したのかもしれません。旅立つ前に父は兄と私の生き方を理解し、認めてくれたのではないかなと思っています。これも何とかに口無しですがね(笑)
そして入院中の父が私に買ってきてくれと言って読んだ本が和田秀樹著の『東大の功罪』。
私は目次しか目を通していませんが、原発はじめこの国が抱える問題をいわゆる東大のエリートといわれる人々が生み出してきたのではないかという内容のようです。
父が最期に読みたがった本がこの本だったというのも、なんだか不思議な話です。
人は逝く時を選んでいるのでしょうか?
父が亡くなったのは5月4日の午後1時36分でした。
その日私は京都の亀岡に。兄は大阪の岸和田に。孫にあたる私の息子は奈良の天理に。それぞれがスポーツ少年団の指導だったり、部活の合宿だったりの用事で出かけていました。実家にいた母と義姉もこの日の午後に病院に様子を見に行く予定はしていましたが、まだ家にいました。
ということで、あやうく誰にも看取られずに逝くところでしたが、息を引き取る十数分前に岐阜の従妹夫妻がお見舞いに来てくれて、老人施設で働いている従妹が異変に気づき、医師を呼んで…最後を看取ってくれました。
従妹夫婦は午前中に足を運んだのですが、その時は見舞いの時間外だったので、出直してたまたまその時間に立ち会うことになったのです。
誰も居ない時に逝ってしまうのと、身内が居てくれるのと、残された家族にとっては大きな違いで、二人には感謝しています。まるで父はその二人を待っていたかのようです。
というのも、その週は身内をはじめいろんな方々が会いに来てくださっていて、会う人には会ったよねという感じだったのです。面倒見の良い従妹が来てくれて、きっと安心して旅立つことができたのでしょうね。
3日、4日と私は京都で台湾から来日する方々に会いたかったので、泊りがけで出かけていました。息子は楽しみにしていた野球部の合宿。もう一日、二日早ければ、どちらも予定を中止もしくは半ばで切り上げなければならなかったのです。息子はすでに帰路のバスに居て、私は一連の行事を終え、奇しくも帰り道に立ち寄った亀岡の神社の入り口で訃報の連絡に気づいたのです。同行の友人たちがその場で父のために共にお祈りを捧げてくれました。立ち会えなかったのは残念ではありますが、行かせてくれたのだと思い、京都でつないだ縁を良きものにしていくことが私のなすべきことなのだと感じています。
そして5日のお通夜、6日の告別式と、連休の間に無事に見送ることができました。連休中にご参列いただいた方々にはご迷惑をおかけしたのですが、休みの間に全てが終わるように計らってくれた父に思わずあっ晴れ!と言ってしまいました。
すべてたまたま、偶然と言ってしまえばそれまでなのですが、人は旅立つ時を選べるんじゃないかなとも思うのです。まあ、選んだのかどうかは本人でないとわかりませんけどね。
写真は5月4日の東の空の雲。
玻璃真人作家として付けたペンネーム『新美 宇受女』
『宇受女』は、畏れ多くもかの岩戸開きの神様、天之宇受女命からお借りした名前ですが、『新美』は父方の姓からとりました。
結婚して籍を入れるまでの三十二年を松上、以後の日々を松原と名乗り過ごす中、ペンネームを考えた時に、新美の姓を取り入れたいと思ったのです。松上に婿入りしたことから、父は新美の名を名乗ることはなくなりました。本人に確認したことはありませんが、私がペンネームに新美を用いたことを少しは喜んでいてくれたのかもしれません。
その父がこの5月4日に84歳にて旅立ちました。
玻璃真人の世界を描くことができたのも、この世に生を受ける機会を与えてくれ、慈しみ育ててくれた父のおかげだと思い、棺には『真言の…』上下巻を納めました。
父の死を通して感じたこと学んだことなどを少しずつこのページの上でご紹介していこうと思います。
写真は5月4日、病院から家に帰った父に会いに行く途中に撮影した夕日です。
おだやかな連休の夕方、太陽が西の山に沈んでいくところです。
玻璃真人の本が初めて海を越え、ニューヨークに行きました。
女子美時代のニューヨーク在住の先輩が帰国され二十数年ぶりに会い、「本を出版したんです。ぜひ…」という話になったものの、本の現物をお持ちの方はおわかりのように、上下巻そろうと結構重い…。
「どうぞお持ちください」とスーツケースを陣取るのも申し訳なかったので、エアメールにて届けさせていただきました。
ありがたいことに早々に読んだ感想をメールしていただきました。
メールをやりとりして、本日とても力強い叱咤激励をいただきました。あちらではまだ29日ですと書かれていました。玻璃真人記念日のとても嬉しい出来事です。
さてさて、真言たちは初めての海外でどんな活躍をしてくれるか?
あちらでも一人でも多くの人に読んでいただけたらうれしいな!