今日は仕事で、木曽岬町の美し国おこし・三重のパートナーシップ「ごたーげさん」の企画イベント「どろんこサッカー」なるものを観る機会をいただきました。
泣き出しそうな空の下、水を張った田んぼにゴールを作り、泥だらけになりながらサッカーに興じます。いつもはカッコ良くサッカーコートをボールを蹴り走るイレブンたちも(今日はひとチーム5人でしたが)、泥に足をとられたり、すべったり、ボールが思わぬ方向に飛んだりと、いつもとは勝手が違っていました。
参加プレーヤーは大変ですが、観ているこちらは面白いこと。面白いこと。見学者は大笑いで楽しませていただきました。
古来より田植えの前に豊作を祈願した田遊び「田楽」があったように、田んぼでみんなが楽しんで大笑いすることで、場の気がやエネルギーが活性化されるのかもしれませんね。試合終了後には郷土料理の「ボラ雑炊」なるものをごちそうになりました。これがまた美味!…とうことで、本日は現代版「田遊び」を満喫させていただきました。
写真は泥だらけの勇者たちです。
本が手元に無い方が、これを読んでいただいているかもしれないので、ネット小説のアドレスをご紹介しておきます。
http://syosetu.com/
(はりまびと)で検索して下さい。
ひろゆきさま
という書き出しで始めてしまって良かったでしょうか?29日の土曜日をどうお過ごしでしょう?(笑)
とりあえず、噂の10月28日を過ぎ、穏やかな秋の週末でした。28日を過ぎて「ああ、良かった何事も無かった」と、あるいは「ほーらまた、人騒がせな眉唾話だったじゃないか」と、昨日の日付を意識していた人は、それぞれに色んな感想を持ったかもしれませんね。
でも、何かがあったとか無かったとかって結局わからないなと思うのです。すべてのことが見えて分かっているわけではないので。単にニュースにならないだけで何かが変わったのかもしれません。それは三次元的なことかもしれないし、違う世界でのことかもしれません。もしかしたら、地球のことを祈ってくれた人やグループがいて、大きな出来事が起こるのを止めてくれたり、規模を小さくしてくれたのかもしれません。
目に見える世界では、特別の大きな動きがなかったとしても、別の世界では何かが変わったのかもしれないなと思ったりします。あくまで思ったり…の段階で、わからないのですが。
わかっているのは、今日も目覚め、朝の太陽を見て、夕焼けに染まる空を見ることができたということだけですね。
写真は洗濯カゴに集合した柿たち。
本が手元に無い方が、これを読んでいただいているかもしれないので、ネット小説のアドレスをご紹介しておきます。
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今年はどこも柿が豊作のようで、あちらこちらの庭先や畑で実をたわわにつけた柿の木を見ます。
玻璃真人の隠れ家の柿も今年は豊作。数メートルの高さの老木で、実が手の届く所に無かったこともあり、越して来てから数年経ちますが、採って食べたことはありませんでした。時折、猿が投げた食べかけの柿を見て、ちゃんと実がなるんだな~と思っていたくらい。あとは熟して崩れ落ちてしまっているので、鳥たちもしくは、地を這う虫たちのごちそうになっていました。
今年は小さな実が9月頃から落ち始めたのを見つけては拾ってみました。小さくて食べるところはほとんど無いのですが、結構ウマイ。うちの柿もなかなかいけるなと、一日一個、二個落ちてくるちびガキを集めては、猿のごとく一人台所でかじっておりました。
この10日ほど前から、ずんずんと大きくなった柿がどんどん色づいてきました。見上げれば千成柿。でも、高枝はさみでも足らない…。そこで屋根瓦に登って、はさみを突き出しては近くの枝をチョッキン、チョッキン。それでもどれだけ分の一?というくらいしか採れません。もう少し、もう少しと端に行って手を伸ばすのですが、柿を採って落ちたなんてあまりにも恥ずかしいので、欲張りもほどほどに。あ~、あの赤くて旨そうなのだけもう一つ…と強欲の塊になりそうになったら、大きな蜂が飛んできました。欲というのは恐ろしいものです…。
たいていは高いところから落とすので、割れが入ってしまうのですが、傷の無いのをおすそ分けしたり。友人に「届けた柿は、もうちょっと置いておいてから食べた方が美味しいかも」とメールしたら「了解しました。5分したら食べます」と返信。何だか笑ってしまいました。長々と柿のネタを書きましたが、言いたかったのはこのフレーズ。日常のこんなプチ、クスッ…ってやりとりってプチっと幸せになります。
写真は無残にも落ちて爆発した柿。撮影後、洗って皮ごといただきました。皮ごとの柿もなかなかオイシイですよ。無農薬が手に入ったらお試しください。
本が手元に無い方が、これを読んでいただいているかもしれないので、ネット小説のアドレスをご紹介しておきます。
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津の市街から夕方に美里に帰る時、ドラマチックな西の空に出会えることがあります。
本日は、紅い夕日。まん丸夕日とピンクがかった薄紫に染まる雲…。ああ、美しいなぁと…ため息。
玻璃真人の上巻第7章に、真言が舞香と夕日を見る場面がありますが、まさに今日みたいな夕日だったのだろうな(作者が言うのも変ですが)と思いました。その夕日が沈むのを見た瞬間に、真言の閉ざしていた心が少し開くという設定です。
唐突ですが、目の前に展開しているものはすべてマトリックス。ある種の電気信号的なものでしかないという説があります。映画のマトリックスのように誰かが作り上げて、マインドコントロールしている仮想現実なのだという。荒唐無稽なようですが、私はそうなのかもしれないな~なんて思ったりもしています。
でも、仮に電気信号によって見たり感じたりしている現実だとしても、今日のような一瞬の光景に出会え、心から嬉しくなれたら、それはそれで幸せなのかな…もちろんマインドコントロールは困りますが。美しいと感じる心を与えてくれたサムシング?に感謝です。
本が手元に無い方が、これを読んでいただいているかもしれないので、ネット小説のアドレスをご紹介しておきます。
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写真は三年前の○○歳の誕生日プレゼントのコスモスです。
小学校6年生の息子が昨日聞いてきました。「10月28日で地球が終わるってゆーとる子がおったでぇ」。来年の12月で終わっていると言われているマヤ暦が、実は今年の10月28日だ説…という話があるらしいのを私もつい二三日前に耳にしたので、息子の言葉に「ほ~。来たかいな」と思いました。
で、「終わると思たら終わり。あんたがどう思うかってこと」と答えると、息子はニタッと笑って言いました。「そー言うと思とったわ。いつもそうやでな」終末思想や地震予言などの噂を聞いて帰った日に交わされる会話では、私の答えが毎回こんな感じなので、彼もそう来ると思ってたよ~ってところでしょうか。
「まだやりたいことあるしな。死にたないなあ」というので、「そんなら大丈夫やぞ」と言ってその話は終わりました。
今仕事のはざかい期なので、調べ物などで結構ネットをのぞいてます。時間が許されると、「その先は?」とか「他の説は」?とかついついネットサーファーになっている自分。するとある。有る。ある。気になる記事に情報、予言、チャネリング…。「これはそうなのかも…」「ああ、そうなのか」「ふ~む、そういうこともありか」「でも、あっちではこう言っていたし」
「この人すごいこと知ってるんだ~」と、読みまくっているうちに、頭の中がこんがらがって訳分からなくなって、情報の食べすぎで苦しくなってしまう…。
で、ちょっと待てよと立ち止まり、私はどこにいるのかなと思い…PCを閉じました。ネットは調べ物をするには本当に便利なものですが、探しにいくと迷子になりそう。PCの画面に載っていることは、どれも本当の自分の探している答えではないのだと思いました。
深い問いは、本当に必要な探し物は、自分の中で見つけなければならないし、その答えは自分の中にしかないのだと思いました。そして自分の外で出会った情報に対しては、それが自分の世界のものだと思えば取り入れ、しっくりこないものだと思ったら取り入れなくていいのではと。その情報は私のものではなく、その情報はそれがしっくりくる誰かのためのものなのでしょう。そして大切なのが、その情報の内容に判断を下さないこと。ただ私のものではないと思うだけでいいのだと。
だから冒頭の10月28日の件も「それは私のための情報ではない」というだけで、そのことについての判断は下してはいけないなと思っています。
で、もし噂がドンピシャだったらどうすんのかって?「いつ露と消えても後悔しない生き方をしていればいいのでは?」なんて、強がりを言ってオシマイ。
写真は縁側で日向ぼっこをしているうちの柿たちです。
朝の家事がひと段落した頃に、珈琲を淹れて、縁側で写真事務所のスタッフと(というほど人はおりませんが)コーヒーブレイク。新聞に目を通す時間でもあります。
基本的にテレビのニュースは観ないので、新聞はニュースソースです。でも最近はインターネットを立ち上げるとニュースが出てくるので、テレビを観ているのと変わらないかな?タイトルだけなので開かない限り映像は出てこないからいいのですが…。ニュースは映像が残るのでなるべく観ないようにしています。新聞も三面記事はもう飛ばして読もうかなと思っています。
だったら新聞やめればいいのですが、時々切り抜いて残しておきたい記事や特集に出会うので、すっぱりはやめられないところです。
昨日付けの伊勢新聞掲載の「地球人間模様@アメリカ『復讐誓った少年』共同通信」もそんな記事でした。これは他紙にはもう少し前に掲載されていたようです。
広島の原爆で家族6人を失い、米国へ労働移住した人のお話でした。いくつもの不条理と思えることを体験しながら、しかしやがて「憎悪の連鎖に決別し、『許し』を説いて平和を訴える行動に出る」。
人はこんなに強くなれるのかと思いました。玻璃真人の本の中で『許し』をテーマに書いていますが、なかなか現実の日常生活では、実践しきれず…。自分の書いたものが机上の空論とならぬよう、襟を正すというか、魂磨きせねばなりませんね。
写真は三年以上前の空雲です。
今この瞬間を写真に撮りたい!と思うような空に出会うことがあります。今日の夕刻の西の空もそうでした。
とは言うものの撮れない状況の方が多いので、ああ残念と思うのですが、仮にも文章を書いているんだったら、それで表現してみろよ~と、心の声が聞こえました(笑)
『10月の午後5時前、西の空にうろこ雲が浮かび、その下にはセルロイドの透明感を持つ雲がかかる…。雲の向こうには丸い太陽が透けて見えている。目を細めずに見つめられる日食のごとき太陽のシルエットが、かえってその存在感を現している…』
イメージできましたでしょうか(笑)?
時々「あ~、今みんな表に出てみ~」と叫びたくなる空模様があります。そんな時は太陽ってすごい、雲って、空ってすごいぞ!と胸が熱くなります。
玻璃真人の下で「太陽もある一つの意識体だとしたら…」というくだりがありますが、そういう時にきっとそう!と感じます。もちろんこの地球も…。
太陽に聴いてみたいものです。秋に桜が目覚めてしまうちょっと不可思議なこの気候のことを。
写真は、今日の空ではありませんが、ちょっとだけイメージが似ているものです。
晴れた日に田畑を耕すわけではないので、天候にかかわりなく本を読みますが、車の無かった時代は、それこそ雨の日には家でゆっくり本でも読もうか…。という感じだったかもしれませんね。
本そのものについては何も覚えていなくても、その内容のある部分をしっかり覚えていて、何かの折にそれがフラッシュバックすることがあります。
文庫本か何かの一章だったのか?雑誌のショートストーリーだったのか?教科書的なものだったのか?全く思い出せないのですが、内容とその挿絵のイメージを漠然と覚えているお話があります。挿絵があったのかもさだかではないですが…。
外国の町の空き地で、おじさんがしゃがんでは、何かキラッと光るものを拾い上げている。それを見つけたおまわりさんだったかが、怪しんで問いただすとおじさんは手のひらに集めたガラスのカケラを見せたのだったかな。「どうしてそんなものを拾うのか」という問いに対して、「子どもたちが怪我をしないように」と答えます。で、周りを見てみると空き地の離れたところで子どもたちが走り回って遊んでいる。そしてその子たちは靴をはいていない。
もちろんもっとちゃんとした表現だったのだと思いますが、残念ながら再現はできません…。でも残っているんですね。小学校の頃読んだ1ページ足らずの話を。読んだものはそれで終わりではなくて、自分のどこかに残っているんでしょうね。
写真は晴耕雨読じゃなくて、晴休雨動のカタツムリたち。
読書の秋のせいなのか?本を数冊ネットでまとめ買いしました。一つの書籍を探すと、リンクする本が次々出てくるから選択に困ってしまいます。どれも「読んでみ~。探していた本だよ~」と囁いて迫ってくるので、ついつい買い物カゴにポイっと入れてしまいます。ネットで購入するのは本くらいだからまあ、いいかなと言い訳しつつ…。
本屋さんをうろうろして、目に留まる一冊を見つけるのも好きですが、それはどちらかというと運命的出会いで、ネットは資料集めという感覚かもしれません。
あの頃あんな本にはまっていたなぁ…と、秋の夜にふと思い出したのは、トルストイの「人は何でいきるか」という本でした。薄い単行本でしたが、高校生の頃何度も読み返した覚えがあります。話は見事に覚えていませんが…。でも心とか精神のようなものを教えてくれた本との出会いだったかなと思います。
タイトル名を確かめるため、ネットで調べていたら、「イワンのバカ」という著作もありました。これは親に買ってもらった本でした…。
もう一回、トルストイ読んでみようかな、十代に戻れるかな?
ああ、でもその前に届いたばかりの数冊の本がありました。
写真はとある神社の境内の遊具。なんかロシアっぽくないですか。レトロでいい感じでした。
観たいと思っていた映画「ライフ いのちをつなぐ物語」が明日で上映終了ということで、駆け込みで観にいってきました。朝8時台の一回きり上映なので、子どもを学校に送り出して飛んで映画館へ。
私の他には観客は一人。二人きりのほぼ貸切上映会でした。ぜいたく!でも、平日の朝ですもんね。
生まれ、餌をとる、餌になる、子どもを産む、子育てをする、死。いろいろな生き物の命の有り様を映し出していきます。
他の命を食べて自らの命をつなぎ、食べられる立場のものは自分の死をもって他の命をつないでいく。人間以外の生き物は狩り狩られながら生き延び命をつないでいます。人間は他の命で自分の命をつないでいますが、他の命のをつなぐために自分の命を与えることはめったにありません。
そうやって生き延びている人間は、純粋に生き延びるということのため以外の理由で同じ種である人間の命を奪っている…。なんかな~って。ちょっと軽いですが、ああ、なんかな~って感じでした。こんな人間たちに食べられるくらいなら、他の動物に食べられてその命が生き延びるために役立つ方がよっぽどええわい!という声が聞こえそうです。
それにしても知らない生き物や場所がいろいろ出てきて、あ~、人間ってこの地球のたくさんの生き物の中の一つの種類の動物に過ぎないんだな~と思いました。