覆水盆に返らず…奈々子カップ破損事件のその後。これまた余談ですが、むか~し、むかし、中学校だったかで習った英語のことわざ「It is no use crying over spilt milk」という英語版覆水盆に返らずをずっと覚えているのです。他の英語なんてな~んにも覚えていないんですけどね。
後ろを向いていても仕方がないとうことで、その日の午後は外出をしました。そして本屋に行きました。きっと今日は私を呼んでいる本があるそんな気がしたのです。そこで目が合った?のがE・キューブラ・ロス著の「死後の真実」日本教文社版です。キューブラ・ロスはアメリカの精神科医で、死の臨床医学の分野の世界第一人者です。「死ぬ瞬間」などその著書は日本でもいくつか翻訳本が出版されています。
もう二十年ほど前ですが、四日市でキューブラ・ロスのお弟子さんだったか研究者だったかの外国の方の講演会を聴講する機会がありました。その後図書館で本を読んだりしていましたが、もうすっかり忘れておりました。
研究の多くは死の臨床、ホスピスケアや臨死体験についてでしたが、晩年は死後の命についての考察を深めていたようです。「死後の真実」の中では、死後もいのちはまた別の世界に生き続けていくと語っています。
命や魂というものをどうとらえるかは、本当にさまざまな考えが、人の数だけあると思います。だからこの三次元の体の機能がストップしたら全てが終わりでその先は何も無いという考えもありでしょう。でも私は体は魂の衣装のようなもので、死というのはそれを脱いで魂がまた別の世界へと移っていくことなのではないかと思っています。慣習とはいえ、ほとんどの人が葬儀のあと供養の営みを続けていくのは、どこかで漠然とこれですべてが無くなったわけではないと信じているからじゃないでしょうか。
肉体を脱いで行くわけですからあちらでは形とか体とか必要ないのかもしれません。しかしついつい生前の肉体があちらにもいるようなイメージをしていまいます。本の中にあちらでは完全な姿と機能で存在できると書いてありました。ということは、いつも自分の足で歩くためにもっとリハビリをしたいと願いながらほとんど寝たきり状態になり、口から物を食べることができなくなっていた父も、あちらでは自由に歩き回り飲み食いできるのかなと思ったりします。
見えない世界というか分からない世界だから何が真実とも否ともわかりません。でもそんなふうに考えるとなんか嬉しくなります。真実だとか証明できるとかできないとか、そんなことよりもっと大切なことがあるような気がするのです。