亡父は昭和3年生まれ、母は昭和6年生まれ。6人兄妹の父は十代の初めに父親を結核で亡くし、母親が6人の子供たちを新聞配達の仕事をして育てました。三人姉妹の長女の母も14歳で父親を戦争で亡くしています。その時代に生まれ同じような境遇を経験した人も多いと思います。父も母も人生の少なくとも前半は苦労の連続だったでしょう。父が進学を諦めたくだりは前回の語りにも書きました。
自分たちの苦労をあまり多く語る両親ではありませんでしたが、昨年秋に父親が入院してから母が時々「なんにもないとこから始めたんやもんな~」と時々口にしていました。共稼ぎで一戸建ての家を建て、息子に進学のチャンスを与え、娘を東京の美術大学にやり、孫と住めるように増改築をし、孫の世話をし…そんな風にずっと子どもや孫のために生きてきたような感じです。学歴重視の父でしたが、同時に「友だちを作るためにも大学に行きなさい」と進学を後押ししてくれました。この3月に美大時代の友人や先輩に会う機会がありましたが、確かにその時の友人たちとの出会いは今も私の宝物になっています。
家という安心して学び成長する場と、たくさんのチャンスをくれた両親には心から感謝しています。そんな私も今は中学生の息子を持つ母親になっています。息子にとって私はどんな親なのだろうかとわが身を振り返ってみました。
「自分の生き方を見せていくことが、人生ってなかなかいいもんだ、楽しいものなんだと子どもが感じられる生き方を見せることが、私が子どもに親としてできることだと思っています」
なんてことを偉そうに人に語っている私…。
もちろんそういうことも大切だと今も信じていますが、息子からは「もっと目に見える愛をくれ」と言われそうです。両親から与えられた形の愛を私も自分の子どもにつないでいけるのでしょうか。どこまで両親に近づけるのかなあと思いながら、きっと手探りで親を生き続けていくのでしょうね。
そして自分たちのことを後にして、私たち兄妹にいろいろな形の愛を注いでくれた両親にとって私は彼らの宝物なのだと思うことにしました。だから私が幸せであることがこの人生を輝かせて生きることが両親への何よりの恩返しなのだと。というか、両親がそう思ってくれていることを願うのでした。
父と母は人生という旅の苦楽を共にしてきたいわゆる戦友だったのかもしれませんね。よくケンカもしていましたが「転ばんように気をつけなあかんで」と、病院に見舞いに来た母に父がいつも声をかけていました。いろんな夫婦のかたち、いろんな愛のかたちがありますね。