ハリマビトノ恋文で「モクレンの花」というウタを書いたのですが、それを読んだ友人が、「木蘭(もくれん)の涙」という曲の詩を教えてくれました。
YouTubeで曲を聴き、さっそく本日レンタルしてきました。音楽の世界にはあまり詳しくないので知らなかったのですが、スターダストレビューが歌っていて、佐藤竹善さんもカバーしているようです。ちなみに佐藤さんのCDをレンタルしてきました。
曲を聴く前の昨日、「木蘭の涙」への返歌のようなウタ「モクレンの贈り物」を書いたので、ハリマビトの恋文にアップします。
「モクレンの贈り物」は、残していった恋人へのメッセージのようでもありますが、それは父からの、母からのあるいは親しい友人からの、そして大きくとらえると地球からの、宇宙からのメッセージなのかもしれないと、ウタを書き終えて思いました。
その「モクレンの贈り物」は、すべて自分の周りにあるものは、共にいる人々は、今ここを生きている私自身のために誰かが与えてくれたものかもしれないという思いで書きました。すべて私のために用意された愛のメッセージなのかもと思うと、受け止め方も向き合い方も不思議と変わってくる…愛おしく思えるのです。
そしてそれは「この世で一番の奇跡」というオグ・マンディーノの本の世界に続きます。私たちは一人ひとり、みなこの宇宙から生み出された「この世で一番の奇跡」なのだと。cafe cocoroさんのお客さんが貸してくれたのですが、とても良い本です。機会があればぜひ読んでみてください。
私たちはみんな「この世で一番の奇跡」として生まれ、愛のメッセージに満ちた贈り物を受け取っている…現実はそんなに美しくも、甘くも、強くも感じられないほど、ハードだったり、苦しかったりするかもしれません。でも、自分はこの世で一番の奇跡で、実は見えない愛で満たされていると思ってみると、今という瞬間をちょっと違う見方でとらえ、向き合うことができるかもしれません。
思うアホゥに思わぬアホゥ、同じアホなら思わなそんそん!って歌ありませんでしたっけ?(笑)
2011-04-23 Sat 17:03:21 / Name : ひろゆき……えーお久しぶりで
ともかく肩の荷だけは下りた定期試験の最終日、高校の正門から最寄駅までを結ぶ一本道で、同級の三人は答合わせをしながら鹿の仔のようにほたえていた。
いつものような背中を射抜くいやらしい色の西日もなく、ぼくたちは自らの影を踏まずに歩くことができた。空はかんかんに青かった。光が充満していた。
駅との中間地点にさしかかったころ、ぼくは右手のネギ畑の畝の間に野球のボールが泥砂を被っているのを見つけ、考えもなしに拾い上げた。黒かびで汚れ、傷も出ていたが、ずっしりと重く、おもちゃでないことはすぐにわかった。
「硬式のほんまもんやな」
ぼくは野球にはぜんぜん関心がなかったのだけど、大人の落し物、社会を構成する部品の一部をたなごころに乗せたような気持ちになっていた。
──ちょっとこれ貰ろとこ。本物の硬球や。あんな根深の荒れた畑に埋まっとるほうがおかしい。にやわん。
やめとけさ。こんなんほかしとき。そんな連れの言葉にも耳を貸さず、ぼくは仲間の手をひと回りしたボールが戻ってくると、砂を払い、隙間だらけの学生鞄にしまおうとした。
そのとき、左隣にいたTが、「おまえ知らんらしいから教えといたるわ」といって話を始めたのである。駅前の交差点は600メートル先でかすんでいた。15歳の汗も息も、いまとは違っていた。
本物の野球のボールというものはじつは恐ろしい代物なのだとTは言ったのだ。
「おまえ硬球の芯、見たことないやろ。当然や。見ようとしたら目が潰れる。ええか、あの中にはなあ」
要約するとこうである。
認定をパスした公式なボールの構造は、じつは精緻を極めている。投げたときの無用の回転やふらつきをコントロールするために、芯となる核には超高圧下で圧縮された、液体とも気体ともつかない異様な物質が使われており、それがいったんはゴムのように弱々しい皮膜に充填されている。弱々しいだの充填だのといっても、それは何千バールという気の遠くなるような高圧下での工程であり、間違って娑婆に出ようものなら、皮膜はたちまち猛り狂ったように、数千倍にもなる外観を呈しながら爆発する機会を窺うことだろう。
それを現実のボールの形状に納めるものは何か。力に対し力で押さえつけるものは。
「何やと思う」
聞いておきながら、Tはぼくに数秒の時間も与えなかった。陽気だった。
それは糸なんだそうだ。糸といっても単一の種類ではない。羊毛、麻糸、綿糸、合成繊維、炭素繊維といった5種類もの糸が、直径わずか2センチメートルの芯の回りに、何百何千何万回も巻きつけられ、さらに繊維の隙間には特殊な薬液が充填され、それを繰り返すことで、ようようあのボールの大きさにまでなるのだという。信頼の糸。一縷の望み。近代的なボール作りには、この特殊な芯と、それにもましてそれを取り巻く糸の技術が欠かせないのだとTは続けた。製造過程でかかるこれらの高コストは、数をこなすことでまともな値段に納まっているのだという。
「このボール、ここに大きな傷があるやろ。けっこう深いな。こういうのが危ないんや。これは俺の従兄弟が知り合いから聞いた話なんやけどな」
Tによると、そのどこかに住むどむならん奴というのは、ボールの中心が見たくて全容を解明したくて仲間に自慢したくて、根気強くやすりで削ったりのみで穿鑿したり宥めたりすかしたり蹴飛ばしたりして、どや半分ぐらいまでみしったったぞ、という段になってどうも傷口の容子がおかしい。このプツプツやかましい音は何ぞと訝る間もなく、直後に裂け目からほとばしる得体の知れない液体により両眼を潰してしまったのである。
──せやからお前、こんな深い傷のあるボールを今日みたいな暑っつい日に部屋の中に置いとってみ。一発でボーンかもしれんど。
直射日光の入る勉強机の上で、ボールがいきなり破裂する絵を、Tは想像している。
でもぼくは別なことを考えていた。
矛盾という言葉が浮かんだ。例の矛と盾を同時に鬻ぐ人の話である。あの商人、あのとき何と答えたんだっけ。
技術の粋を集めた危険なものを技術の粋を集めた安全なもので包んだものは、それが野球のボールのように、手のひらに、身近に、隣町にあるときに、危険というレッテルを貼るべきなのか、それとも安全なんじゃと治まるべきなのか。
ボールなら安全だろう。でもその安全は、いかに芯が危険とはいえど、しょせん生命を脅かすような性質のものではないぜよという、危険性の上限値に依拠しているにすぎない。
たとえば芯の安全度が百点満点中たったの1点であったとしても、そのまわりに安全度の高い容器で何重にも包み込めば、全体の安全を請け負うことも可能だろう。
でも中心の安全度が0点だったら。
──0点ちゅうのはお前、ゼロという値打ちとは違う。マイナス百点やマイナス1万点や言われても何も返せへんのやぞ。0点ちゅうのはそういうこっちゃ。
模試の物理Ⅰでたまたま0点を取ったとき、父はそう言った。物理という科目は0点を取りやすい。知ってて言ったのか。
中心の安全度が0点なら、生命の壊滅をもたらすものなら、いかなる安全基準を満たす仕組みでくるもうとも、詰まるところ、まことの平安は得られまい。
あのときは、そんな考えもなかったが。
ボールを手にして歩いていたのは百メートルほどだったが、ぼくは行人の面前でどぶに投げ入れた。
Tの話を聞いて、ボールが少し重みを増したように感じたからだ。
手に泥のにおいが少し残った。
2011-04-23 Sat 18:38:18 / Name : うずめ
ひろゆきさま。
実は、私が小学生の頃、実家の母が硬球かな?いろいろな糸でぐるぐる巻きになったボール玉に、皮を貼って赤い糸で縫い閉じていくという内職をやってました。私も手伝ったというか、邪魔をしたことがあるのを思い出しました。「安全」の定義ってなんでしょうね。車だって飛行機だってガスコンロだって何だって「危険」は含んでますよね。100%の安全ではないとどこかで分かっていながら
文明の利器を使っている。もちろん細心の注意を払うという前提で。でも、100%安全でなければ使用してはいけないものもあるはずです。今回の原子力発電所というのもその一つだと思うのです。この文明を享受させてもらった私たちはともかく、未来の子どもたちにあまりにも大きなつけを残してしまった。そして人間だけではなく、動物を植物を巻き込んでいる。これは私たち人間のあまりにも大きなおごり…。テストの0点は怒られて追試して何とかなりますが、取り返しのつかない0点もあります…。